インタビュー

できなさを味わい続けた27年。それでも保育って、おもしろい。<前編>

民間保育園で3年、公立保育園で24年。挫折もあじわいながら、それでも保育の魅力にとりつかれていったみちこさん。「ぜんぜん順風満帆じゃなかった」という保育士生活を振り返りながら、自身が感じた保育のおもしろさを、少しずつ言葉にしてもらいました。

(きむらみちこさん・潜在保育士・ほいくしが代表)

  1. きっかけは海外協力隊
  2. 保育のおもしろさと、子育てをはじめての変化
  3. 仲間が教えてくれた「人に頼っていい」ということ
  4. 新しい道へ。保育士の可能性を、ひろげたい
  5. 「心が動いた瞬間を、大切に」

1. きっかけは海外協力隊

北海道の生まれで、幼いころを京都で過ごしました。下に弟と妹がいて、小さい頃は周りに子どももたくさんいて。昔から、年下の子のお世話をするのは好きでしたね。

子どもの世界って、いじめっ子がいたりとか、理不尽なこともありますよね。そういうのが放っておけない性格でした。納得いかないことをそのままにできない、負けず嫌いな子どもだったと思います。

滋賀に来たのは、中学生になる前でした。

実は私、もともと保育士になろうと思っていたわけじゃないんですよ(笑)。本当は海外へ憧れていて。高校生のとき『青年海外協力隊』という存在を知って、それに行きたかったんです。

調べる中でたまたま、保育士として海外で母子支援をした人の記事を見つけました。“あ、資格持って行ったらこういうことができるんや!” って思って。単純なので、それで保育士になるための専門学校に行きました。

ただ協力隊に参加するには、実務を3年経験しないといけないんです。じゃあとりあえず、3年働こうと決めて。卒業して滋賀から京都に移って、民間の保育園に勤めました。

予定通り3年働いて、そろそろ協力隊の準備をしようと思ったときに、母に病気があることが分かりました。ガンでした。当時は妹がまだ中学生、弟も高校生。これはちょっと自分だけ海外に行ってる場合ではないなと。

どうしようか迷っていたときに、その母から「大津市で保育士の募集があるけど、どう?」って声をかけられました。当時は公務員の募集人数も多くて。悩みましたが、親を安心させたかったし、滋賀に戻って公立園の保育士として働くことになりました。

2. 保育のおもしろさと、子育てをはじめての変化

戻った次の年には結婚して、翌年に第1子を出産しました。そこからは正直、海外に行くなんて言ってられない状況で。辞めるきっかけすらなく(笑)、怒涛の日々を過ごすうちに、結局24年間、公立園に在籍していました。

ただそんなに長く保育士を続けられたのは、やっぱり経験を積むうちに、だんだん保育がおもしろくなってきたからだと思います。

若いときは先輩の言うことを聞くばっかりで、なかなか自分で判断できなかったところが、20代後半になると少しずつ、思いも言葉にできるようになって。

公立の保育士というのは、働いている人の年齢も幅広いし、療育やいろんな現場への異動もあって、実は人も仕事も多様なんです。会議なんて、むちゃくちゃアツいんですよ(笑)。

そんな中でだんだん、周りの人が自分の発した言葉を受け止めてくれるようになって。少しずつ “保育の仕事って面白いな” って思うようになりましたね。

それと自分が子育てを始めてからも、保育を見る目が大きく変わりました。2人目を産んでしばらくして両親が亡くなり、頼れる人もいなくて。正直、自分の子育てにはかなり苦労したんです。

今思えば私、若いとき相当キツい保育士だったと思うんですよ。お母さん、がんばろうよ」とか「これ、やってくださいね」「お仕事終わったらすぐ迎えに来てね」とか、そういうことも言ってました。

でも子育てをしながら保育をしていく中で、自分があまりにできないことを経験して。だんだん親の気持ちが分かってきたというか。子育てなんて上手くいかなくて当たり前なんだって、ようやく気づきました(笑)。

それまでは “こうでなきゃ” というのをつくって、がむしゃらに働いていたんですけど、別に全部出来へんでもええやんって。少しずつ肩の力が抜けていきました。

 

<後編>へ続きます)